ほぼ片面だけのジョーカー – 高校生と変わらない、コミュニケーションする日常(「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」や「ピーチガール」感想)

2024年12月8日

「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」

構造と言えばいいか、展開と言えばいいか、演出や雰囲気と言えばいいか分からないけど、想像していた通りの内容でした。勿論、RHYMESTER 宇多丸の評論を聞いていたり、ツイッターで感想を目にしていたことも、半分ほど影響していますが、その頃は全然興味無かったし、こういう作品は見る前に人の意見を見聞きするのは良くないだろうと思ったのもあって、殆ど聞き流していました。そもそも公開の数カ月前ごろ、公式アカウントが宣伝を盛り上げ始めた頃に、どんな続編になるか考え、上手くいかない主人公と、それに反して混沌としていく社会について語られるのかな、とぼんやり想像していました。大方の予想と同じく。

そりゃこういう映画になるであろうと思いつつ、終盤には大仰な展開がちゃんと用意されていた事は予想外で、そこはちょっと前のめりになりました。ビッグバジェット作品、というか映画自体にカタルシスを求めるタイプでも興味を惹かれるシーンだと思います。そういう層に向けた目配せもあると思いますが、大きな期待とお金がかかっているのだから、それなりの規模の"映画"をやろうという、作り手の意気込みも感じました。
終盤の盛り上がり然り、ちゃんと大きな作品になっていたから、賛否両論になるほど酷い造りではないじゃんと思いました。賛否分かれるのはそういう部分じゃなくてストーリーなのかもしれませんが。。。大方の予想通りだったことも、ソフトストーリーの様なタッチで描く作風も、終盤の展開もひっくるめて楽しめたので、嫌いな作品じゃなかったです。かと言って好きな作品でもありません。

賛否両論といえばストーリー的には前作の方が、賛否分かれるのもさもありなんという展開だった筈で、実際分かれていた筈。賛の声が大きくても、中間は居ただろうか。居たかも(笑)。構図的には今作の方がキッチリ意見を述べていて、その意味では今回の方がストレートで分かりやすく、賛否両論になる作品には見えませんでした。オープンエンディングでも無いと思います。

が、これは続編であり、前作があるからこそのストレートだし、前作があるからこその賛否両論ということですよね、きっと。いや、ストレートに言い切っているからこそ意見が分かれるんでしょうか???分からん。

ジョーカーは主に下手から撮る~感想の書き出し

アーサーを右(上手)から撮るシーンが少ないように感じました。裁判所のシーンでは、陪審員席から彼を撮るショットが多いので、それに合わせて、他の場面でもそういう撮り方をしていたのでしょうか。リーや他の受刑者らと共に映画を見る場面では、右側から映していたと思いますが、あれはリーを映す為のアングルだったと思います。初めてのインタビューが放送され、それを看守や受刑者たちと一緒に見る場面でも、テレビの前に立つアーサーの左半身、つまりカメラや観客にとって右側から映されていました。

このように、必ずしも左側(下手側)から撮っているとは限りませんが、映像的文法としての見やすさから、左からの撮影が多いのかもしれないし、右側(上手側)から撮る場合は妄想ミュージカルシーンの様な、別の意図があるのかもしれないので、次に見る時は注意してみようと思います。そんな意味は全く無い可能性の方が高い気がしますが。


冒頭のアニメーションで、今後の展開を示唆されています。偶像と自己の乖離、自己認識がテーマであることが最初から提示されていました。

カミソリ怖っっっっ。

前半、撮影されながら精神科医の問診を受ける場面で、タバコの灰を落とさないまま吸っていました。その後の喫煙シーンでも落としていません。誰しもがどこでも吸っていた時代だから、当時は灰も適当に落としまくってたのかな?

劇伴が流れる直前は不協和音が流れがち?気のせい?

三幕構成推測の覚え書き。
一幕目は合唱に誘われ、リーと会うまで。アーサーの期待と、世界が輝きだすまで。
二幕目はアーサー(リー?)の妄想ミュージカルショーから。訪れた青春と、現実を見ないフリと、期待に応えようと奮起するまで。
三幕目はジョーカーを演じて出廷するところから。本人訴訟。本心を受け入れ、ぐったりするまで。

獄中の受刑者の話ではありますが、貧しい人の生活を描く作品にも見えました。2020年代の都会の片隅、現代を描いた作品に見えなくもない、というか辛いことに、現実でも同じ様な空気を感じることがあります。作り手もそういった空気感を持っていて、映画というフィルターを通して、その居心地の悪さや残酷さが表れているのだと思いました。

精神病を始め、"違い"とされるもの/者を、不条理コメディの様に見せる演出に、ドラマの『ビッグバン★セオリー ギークなボクらの恋愛法則』を思い出しました。笑わせる為のものと、酷過ぎて笑っちゃうような嫌味という明確な違いはあるけど、何故か似る。(向こうは向こうで色々な意図がありますが)

『ジャスティス・リーグ』やスースク等のDCEUとは別のラインですが、今作でもハーレイ・クインの存在感は大きく、主人公と同じ位の輝きを放っていて、こちらもハーレイが目立つ映画となっています。まぁ、そういう構図のストーリーだから目立ってるし、リーは厳密にはハーレイ・クインではありませんが。

アーサーとまわりの人間との構図、関係性が、思春期のように幼く見えました。弁護士は母親代わり、リーは好きなクラスメイトのようです。

最終弁論でアーサーは本心を吐露します。彼は優しかった。意図しない偶像を背負う覚悟が出来ない、しない人間だったということが描かれます。刑務所の若者が自分に影響を受けた結果、亡くなってしまったことが怖く、それを後悔するほど優しかったから、最後は本音、真実を語ったのだと感じました。

「There’s no JOKER.」

瞳孔を開く演技が上手い、ホアキン・フェニックス。覚えてる限りでは2回、開いてました(笑)

終盤、”あの階段”で捕まり連行されるシーン。ぐったり連行。あんなにぐったりしながら車に乗ってる人もあまり見ない気がする…笑

追記:監督インタビューを読んで

感想を一通りまとめた後、映画ニュースサイト等で、ジョーカー2の記事やトッド・フィリップス監督のインタビューを読みました。それを経ての感想や監督の発言を、"追記"として書いておきます。

THE RIVERの、公開直後ぐらいの記事。ジョーカーを崇拝する大衆の落胆も描いていましたが、日頃からコミュニケーションをしっかり取っておくべき事、その重要性への言及は、シーンとしては少なかったかもしれません。それは具体的なシーンというよりも、映画全体で、自分の手が届く範囲の世界を見つめる事の意義や、目の前に居る人の話を聞く事こそ、豊かさに繋がるというのを作品全体で伝えているように感じました。ifは無いかもしれないけど、ちゃんと誰かがアーサーと対話していれば、あんな風にならなかったかもだし、現実に居る誰かに対しても同じ。これからのすれ違いを防げるかもしれない、そういうメッセージ性を、監督インタビューを通して感じた気がします。(アーサーについてはそんなレベルの話では無いというのもありますが…)

MOVIE WALKER PRESSのインタビューでは、「あらゆる映画がなんらかの形で世相を映しだしている」と考えていて、今作では"腐敗"が映されている、とのこと。刑務所や司法、エンタテインメントの世界もそうなっている。プロレスの試合みたくなった大統領の討論会に何の意味があるだろうか?といった旨の発言もされていました。確かに俯瞰に俯瞰を重ねて見ると、映画全体がショーの様でした。
THE RIVERによればクエンティン・タランティーノは今作を賞賛したとの事で、「まるでジョーカーが撮ったかのような作品。トッド・フィリップスこそジョーカーだ」というように話していたそうです。"腐敗"が表れているという発言と照らし合わせると、タランティーノの指摘も妙に説得力あって、納得できますね(笑)

ムービーウォーカーとORICON NEWSのDrama&Movieの記事。暴力が現実に与える影響を描き、暴力を見せることの危うさと、その責任を持つことを自負して制作したという。友人を傷つけるつもりはなく、もっと大きな相手や社会を殴るつもりだったが、それが巡り巡って身近な人にも降りかかってしまう虚しさも見えた気がします。日本では影響を受けた事件が実際に起こってしまっている中で、法廷を爆破しても、"偶像"はぐったり連行されて普通に刑務所に戻され日々を過ごすという、"悪い夢"は続かないという結末を提示される事は、後出し感が有ろうともケジメを付けている事に尊敬します。

オリコンニュース。主人公の色々な面からアイデンティティーを語る作品と、フィリップス監督は仰っていました。私見に引っ張るようだけど、アイデンティティーを作るのはやっぱり、他者や世界とのコミュニケーションだし、自己を描く、掘り下げるという事は、対話の重要性へと繋がると思います。もっと広がりがあれば、変わる余地もあるからです。ですし、分かっているつもりの自分が変わっていない事にも気づける、という事でもあるはず。
普段から音楽とか聴いているから、好きな人とのすれ違いとか理想との乖離とか、とっくに見聞きしまくってる。だからアーサーはアーバンギャルド、いや松永天馬のソロアルバムを聴いておけば、こんな事にはならなかったのかもしれない(色んな方面から怒られそう)。

コミュニケーションの取り方。会話が成立しているのかどうか。

家族や友人と話すとき、本当に自分の意図は伝わっているのか?会話は成立しているのか?今までコミュニケーションが取れていたと言えるのか?と、常にどこかしらで考えているのですが、『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を見る前も、それについて考えていました。鑑賞前にサブスク等で見ていた過去の映画も、偶然にもそれらの作品の殆どが、人との関わりや対話の重要性、他人とのコミュニケーションについてを描いた作品が多く、『~フォリ・ア・ドゥ』にも通じるテーマや雰囲気が感じられたので、”コミュニケーション”を軸に、それらの作品についても書こうと思います。

多分、『ピーチガール』と『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を比較することも珍しいんじゃないかと思います。


「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」

「アバター ウェイ・オブ・ウォーター」
監督・脚本家・スクリプトドクターの三宅隆太監督が、今作は『北の国から』の方向に舵を切った感じが凄く良い、と話していましたが、そう思って見れば、このシリーズの意図もなんとなく理解できます。まさにアメリカ的家族物語でした。”共感してくれない人への対処”が、「~フォリ・ア・ドゥ」と比較してみると面白い?かも。ほのぼのとしつつも争いの予感が常に見え隠れしていて、これもなかなか不思議なバランスの映画に感じます。異文化交流という、”コミュニケーション”の中でも最も難しく、最も素敵で有意義な、そして最もレベルの高いコミュニケーションかもしれません。コミュニケーション界の大物ですね。異文化交流だけでなく、家族との関わりから転校生的な要素もありますし、この作品だけでも多種多様な人間関係が見られるので、人との関わりに躓いた方にはこの作品がおすすめです。精神的な負担がかかる作品を避けたい時にも良いと思います。

但しこれは予算的にも物語的にも規模が大きい作品ですので、語られる問題も範囲が広く、一個人の悩みと共通するものがあるかと言われれば、少し違うかもしれません。悪く言えば大まかに、マイルドな悩みとも言えます。しかしそれを逆手にとって、自分の悩みが大したことないと思えるようになるかもしれないので、やっぱりどういう面持ちで誰を応援するかという楽しみ方が、出来る作品と思いました。人の話を聞くこと、自分が思うよりももう一歩譲る感覚で話を聞くのが大切だ、ということも描かれています。

もう少しヒットしたり、絶賛されてもおかしく無い位の出来だと思いますが、やっぱり13年振り(!)の続編や3時間越えというのが広まらない要因でしょうか。いや、ヒットはしたと思うんですが、多くの方々が言う様に、同時期公開のスラムダンクの勢いがあまりにも強かったんでしょうか。配信で、しかも区切って見た自分が言えたことじゃないですが…。

「アクアマン 失われた王国」

「アクアマン 失われた王国」
続いても海が舞台の作品。兄弟との確執が描かれた前作でしたが、今回は兄弟、ひいては家族と協力し合うとか、信頼とか結束という、ヒーローものらしいテーマが設定されていました。喧嘩したり、間違ったり、行動した結果得られたものが思っていたよりも退屈で望まない地位だったり。「~フォリ・ア・ドゥ」との共通点で言えば、一度引き返して省みることも良い選択だよ、ということが語られます。これも大袈裟なフィクションですが、主人公のアーサーが、王としての仕事に辟易している事に気づいた時の兄・オームの反応など、身に覚えのある感覚もちゃんと映しているので、意外とハッとさせられる瞬間もあっておすすめです。

「よく作ったな」と感心するほど色々なものが画面に映っているし、大きく展開するストーリーや舞台が次々と変わっていく構成など、ホントよくまとめ上げたなと思うほど上手く詰め込まれていました。二幕目に入るとパトリック・ウィルソンの演技、キャラクターの様子が、違うように見えました。馴れ馴れしさが急に出てきた感覚で、途中で少し統率が乱れた印象です。それでも最後はやっぱり「よくここまでまとめたな~」と思えるような仕上がりで、おすすめできる良作でした。

そう思えたのはやはり、DC・エクステンデッド・ユニバースとしては最後の作品になってしまった事とか、そういう転換期のごたごたを知っているから、というのもあると思います。その分、温かく見られて楽しかったです。

「アルキメデスの大戦」

「アルキメデスの大戦」
またしても海が大きく関係してくる作品。監督曰く”ホームズとワトスン”である主人公とその相棒の、信頼関係が築かれていく様子に対して”コミュニケーションを描いている”と言えますが、敢えてこの作品で”コミュニケーション”を軸に紹介するとしたら、終盤で語られるトリッキーな論理と、それに対する主人公の行動が、”大きな”意味でコミュニケーションの不和を描いている、と私は思います。一個人が、大きな流れに対して何が出来るか、という作品でもあるのがジョーカーと似ているかもしれませんね。

日本のドラマみたいな展開になる映画かな、とぼんやり想像していましたが、大分違う作風でした。ケイパーものみたいなところもあって、冒頭の、カメラを交互に横に振るコメディみたいなシーンも、意図的な演出と分かって少し安心しました。主人公が登場するのが17分経ってからですが、それまで菅田将暉が主役という事を忘れてしまう程、舘ひろしの存在感が大きい。が、菅田将暉も流石で、彼が画面に映るだけで作品が変わるような、華も勢いもあるように感じるのが本当に凄いです。菅田将暉力(りょく)すげぇ。二幕目中盤の、根性論で行動していく展開は中弛みしてしまいました。三幕目、ラストの構成は少し特殊というか、捻りの効いた展開で、音楽で(ポップソングとかっていう意味で)落ちサビがあるみたいな感覚です。温度差にやられる構成です。小説のようだと思って見ていたら、漫画原作でした。

音楽が仰々しく、途中から同調圧力が凄かったです。それだけ音で勢い付けたいのか、会話劇故の手法なのでしょうか。

常識に捉われない若い天才が、界隈を変えていく。「ソーシャル・ネットワーク」やドラマ「スコーピオン」が好きなので、この映画も好印象なんだと思いました。超個人的ですが。あと山崎作品はエンドクレジットで役名も併記してくれるのが良い所だと思います!

「ラスト・デイズ」

「ラスト・デイズ」
2013年の映画。丁寧に作り込まれたドラマと構成に加え、"荒廃した世界もの"らしいアクションも多い、良作です。傑作として勧められるような大仰さは無いですが、スペイン製であることも含め、なかなか見ない景色・雰囲気が味わえるので、気に入りました。"外に出ると死んでしまう"という現象は有りそうで無さそうなアイディアで面白い。最近の映画に慣れている人なら、そのアイディアだけがポイントと感じて、楽しみを見つけられないかもしれません。

主人公が中盤で知るとある事実と、その後の彼の心情がストーリーの推進力となるのは、この”外に出ると死ぬ”シチュエーションと相性の良い展開だと思いました。ラストに踏み出す一歩まで含めて、とても上手い構造となっています。面白かったこの作品とジョーカーを見れば、会いたい人が居ること、それを信じて進もうとする人の、両極端な結末を見られるので良いと思いました。

主人公とエンリケが下水に落っこちるシーンで笑いました。叫び声だけ先行して聞こえて、ゴロゴロゴロ…ドーーーン!って落ちるやつです。

「男子高校生の日常」

「男子高校生の日常」
アルキメデスを経てこれを見ると、菅田将暉が当時の年齢よりも更に若く見えます。他のキャストも。

監督が舞台挨拶で「これほど事件が起こらない映画が、これほどの規模で公開されること自体が"事件"」と話していたという記事を読みましたが、確かに起こりそうで起こらない。学祭ライブの観客が全然集まらない!・・・と思っていたら開演時にはしっかり集まっている等、ちゃんと大丈夫な展開ばかりでした。チームしゃちほこもフレッシュ。公開当時、同じ日に「ひだまりの彼女」の舞台挨拶にも出たという菅田将暉の売れっ子ぶりも凄いですね。

共感性羞恥で目を逸らすタイプの作品かと思っていましたが、予想よりも笑ってしまう場面が多くてちょっと嬉しかったです。「こんな事してない」「流石にここまでじゃなかった」という感想を持った人にも、実際はこんな風に見えていたよ、とでも言うような視点も感じられました。同性でも異性でも、どうやって他人に話しかけていたんだっけ?と、対話のはじまりを思い出させてくれる作品として、おすすめです。そしてすぐに忘れます。アーサーの人生も、傍から見れば同じぐらい滑稽に見えてしまうかもしれないのが少し悲しいですね。

「イントゥ・ザ・ストーム」

「イントゥ・ザ・ストーム」
POVとは主観なのか客観なのか。主観視点で臨場感を得られるというのはありつつ、普通に撮影された作品の所謂”神視点”ではなく、カメラ視点と分かりきっている故に客観的に見てしまう、という感覚もあるんだなと気づきました。相手の目を見る、こちら側を見られる、という感覚を映画で味わうというのも、今思えば珍しくて奇妙な感覚ですよね。公開当時は珍しかっただろうし、今でもPOV等はギリギリ珍しい感覚でしょうか。ストーリー的にも”残る者へのメッセージ”や”残したいもの”という、コミュニケーションの為のメディアとして活用されている場面も多いので、単なるアトラクション・ムービーだけでない、ドラマとしての面白さもあったので、意外と沢山楽しめました。映像的文法も、この手法ならではのものがあるので色々な方におすすめできます。”視る/視られる”の境目が曖昧になるような錯覚は、ジョーカー二部作にも感じるし、覗いちゃいけないものを見る感覚も同じだと思いました。

“神視点"の映像とPOV映像を混ぜて編集してある作品で、それによって「これは登場人物が撮っている映像なのか?」と一瞬考えてしまう、要らぬ疑問が生じる造りであることが奇妙だなと思う映画でした。ディザスターものでPOVの映画っていうのは、確かに見たいと思うアイディアだけど、それを実行して、ここまで丁寧に作り上げるのは相当苦労したと思うし、ちゃんと面白くなっているのがすげぇし、何故か安心しました。終盤の飛行機が飛ばされる辺りで、山崎貴映画みたいな手応えを感じました(笑)

中盤、閉じ込められた高校生二人が遺言としてビデオにメッセージを残すくだりは、見ていてとても辛い、痛々しいシーンです。外出時に突然避難しなきゃいけなくなる様子も、これまた見ていて辛いですし、恐怖も感じてきます。アメリカ人にとって身近な恐怖だろうに、それをこんなエンタメにするのは流石というか、立ち上がろうとする国民性とガッツが見えた気がしました。

「ピーチガール」

「ピーチガール」
連続ドラマを一本にまとめたかの様に、怒涛の展開が巻き起こる作品。話が盛られがちな昨今のアクション映画みたいに、二転三転するストーリーは楽しかった。その分、恋愛映画ひいては少女漫画に大切な"心の機微"、”感情が動いたとわかる瞬間”に対しての描写はスピーディーで、説得力を感じられず、少女漫画原作の映画としてそこが薄いのが少し残念でした。

理想の相手と通じ合った、でもそれは一瞬で、その後が大事だった、という事が「~フォリ・ア・ドゥ」と同じだと感じたし、”恋愛ってそういう事だっけ?”とか、理解してもらう事がどういうことかというのが、これらの映画を通して知ることが出来ると思います。映画というメディアの振り幅の広さを感じました。

恋愛対象(異性)との両思い、"気づいてくれた"”分かってくれた”というのは、恋愛の成就において根本的な解決になるのか?それはゴールではなく始まりの一つであるという事も、やっぱり「~フォリ・ア・ドゥ」と同じだと思います。共通点がある事は面白いし興味深い所だとは思いますが、この二作を並べるのはウケ狙いとかではなく、ちゃんと”人間”を描いた作品として並べられると思っています。”対話”とか恋愛って、他人からすれば可笑しく見えたり、ただの惚れた腫れたでしかないけど、まわりを巻き込むこともあるという強い力があるのも確かですよね。
むしろ親との関係の方が、むしろコミュニケーションらしい交流をしていたとも感じました。

ティーン向け作品として、背伸びしている若者を上手に映していて、中高生の観客が共感と同時に憧れも抱くのに丁度いい、絶妙なさじ加減が素晴らしいと感じました。友達と同じ物を買うクラスメイト、人だかりが出来る程モテる同級生、二人だけのサイン、複雑な関係等等。恋愛映画って意外と要素多いですね。陰惨なものが無いという意味でのストレスが少ないジャンルだけに、大雑把に感じられる部分もあると思います。ホテルに連れ込まれるという、もろに性描写を匂わす事態も起こるけど、これは”未成年”の映画というスタンスは変わりません。なので誰がどう見ても高校生(少なくとも設定上はそう)の筈なのに、色々と大人のシステムを突破してしまうという描写もあります。盲腸も大きい病気の範囲だと思いますが、それを先生がHRで話したりせず、クラスメイトが噂したりもせず、主人公の耳に入らないものでしょうか。フィクションといえばそれまでだけど、恋愛の生々しさとティーンという若さ(幼稚さ)が同居している事が、やはりこのジャンルの独特な部分だと感じました。

カイリが他のメインキャラ全員から、つまり3回も壁ドンされていて爆笑しました。カイリはこの映画のヒロイン。「父さん、ちょっと良い投資話があるんだ」なんていう、詐欺予防CMみたいな導入セリフ!更に「満足しないと気が済まないんだ」「満足しましたか?」など、キラーフレーズも多くて見所です。笠松将が、恐らく生徒役で出演していたのをクレジットで知りました。今ではよく見る俳優を脇役・端役に発見するのも、このジャンルの楽しみの一つなのでおすすめです。

健全な楽しみ方

「ピーチガール」の項で書いた「"自分を見てくれた"というのは成就ではなく始まりの一つである」とか、受け入れてもらえなかった時の対処法とか、省みるきっかけとか、惑星規模の話だろうと日本の高校生の話だろうと同じ様なテーマで語れるという事が、映画という媒体・メディアの特性であり、醍醐味だと思います。全然違う作品でも、どこか似たところがある。そうやって比較しながら楽しめる所を見つけるのは良い事だと思うし、自分の視点を持ちつつ、他人が見てるものを尊重して、誰かの感想に縛られず、お互いの持つものどちらも飲み込んで”楽しみ”を見つけられるようになるのが、健全で誠実だと思いました。

リンク

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